戦後復興に大きく貢献している競輪場ですが、常に順風満帆だった訳ではありません。
むしろ波乱万丈で苦しい状況が続いた時期もあるのです。
競輪の歴史を語る上で欠かせないのが、利用客による暴動と競輪廃止論です。
収益を増やし、競輪業界が盛り上がっている中で足を引っ張った要素がこの2つでしょう。
実際にどのような暴動が起き、なぜ廃止論が出てしまったのか、競輪の歴史を紐解いてみたいと思います。
歴史から学び、同じ過ちを繰り返さないように肝に銘じておきましょう。
鳴尾競輪場の暴動事件
いくつか発生した暴動の中で、最も規模が大きかったのが鳴尾競輪場のものでしょう。
暴動のきっかけは、本命選手の自転車にトラブルが発生して棄権したことから始まります。
選手や観客はレースのやり直しを要求しましたが、運営側は自転車の整備不良を本人の責任だと判断したのです。
当然の判断だと言えますが、本命選手の棄権によりお金を失った利用客はヒートアップしてしまいます。
レース場へ乗り込み妨害したり、投石して施設を壊すなどの暴動に発展して行きました。
最悪なのは現場に待機していた消防車を横転させ、施設に放火を行ったことでしょう。
さらには売上金が入った金庫の強奪を企てる者まで出て来て、事態は一向に収拾しなかったのです。
現場はパニックとなり警察官やアメリカ軍ら600名余りが出動する事態にまで大きくなりました。
結果、250名以上を逮捕し、死者が1名出る惨事になったのです。
利用客のマナーや運営の不慣れさ
戦後間もない日本は、今とは比べ物にならない劣悪な治安状況でした。
闇金やヤクザが横行しており、ケンカや事件は後を絶ちません。
そうした状況下で行われる競輪は、ならず者を集める箱のようにも見えたのでしょう。
周辺住民からの反発も多く、しばしば議論が巻き起こっていました。
鳴尾競輪場の暴動などは、こうした反対派の意見をより強固なものにして行ったのです。
平日の昼間から競輪場へ集まる人は危険だと認識されてもおかしくはありません。
高まる競輪廃止論
競輪場での暴動や度重なるトラブルにより、競輪の廃止論が出て来るようになりました。
いくら戦後復興の資金集めという大義名分があっても、トラブルが増えるのは誰も望んでいません。
事態を重く見た当時の農林大臣が、競輪の開催は土日と祝日に限定することを閣議決定するまで時間は掛からなかったのです。
この閣議決定を受けて、多数の競輪場が経営的な理由で廃止されて行きました。
爆発的な人気を得た競輪の勢いに陰りが見えたのはこの時からでしょう。
その後も1965年頃までは競輪の市場規模は成長を続けましたが、徐々に競馬や競艇に客を奪われるようになります。
競輪の廃止という最悪の事態は免れたものの、大きな足かせが付いてしまったのは間違いないでしょう。
衰退していった競輪界の歴史についてはこちらの記事で紹介しています。